昔から、よく知らない場所で眠るのが不安で、怖くて、なかなか寝付けませんでした。 夢の中で、妙なことが起きるのです。 あの日は修学旅行で関東方面に行ったときのことでした。 二日目の夜、富士五湖の、確か河口湖近くの旅館に泊まりました。夜遅くまで同じ部屋の友達と話に花を咲かせていたのですが、深夜を回るとさすがに疲れてきて自然と眠っていました。 何時だったのでしょうか。暗くてよく分からなかったのですが、まだ夜が明ける時間ではありません。私は酷く喉が渇いていて、水が飲みたいと起き上がりました。電気をつけるとみんなを起こしてしまうかもしれないので、どうにか手探りで自分の荷物付近から飲み物を見つけようとしたのですが、手に取ったペットボトルは空っぽでした。卓上のポットのお茶も全て飲んでしまったはずだと、寝る前のことを思い出し、私はそのまま自分の鞄を引き寄せて財布を取ると、そっと音を立てないように部屋の外に出ました。 明かりのついていない状態で、手探りではあったもののよくスムーズに動くことができたな、とその時の私は全く疑問に思っていませんでした。 ぼんやりと薄明るい廊下に出ると、エレベーター近くの自販機に向かって歩きました。自販機の前に着いて、水を買おうとした時でした。 エレベーターの右手に階段があり、そちらの方向から何か笑い声がするのです。私達と同年代の賑やかな声というよりは、少ししゃがれたような低く抑えられた笑い声でした。その声がなんだが不気味で、一体誰なんだろうかと気になって仕方ありませんでした。飲み物を買うとどうしても音がします。その音は、きっと階段付近にいるその人にも聞こえてしまうはず。私はそれがなんだか恐ろしく感じました。 せめて正体を確認して、それで安心できたら水を買おう。そう思って、私は音を出しそうなスリッパを脱いで、裸足になってゆっくりと歩き、角になったところから顔を半分だけ出して階段を窺いました。 踊り場のところに、おばあさんがいました。真っ白な髪は不揃いに腰辺りまで伸びていて、背中を向けてしゃがみ込んでいましたが、半袖の服から伸びる腕は枯れ枝のように細かったです。 おばあさんはしゃがんで、左手にビニール袋を持っていました。ビニール袋の中には、蛍のような淡い光がいくつか入っていましたが、蛍が発する黄緑色の光ではなく真っ白なものでした。そしてその光を袋の中に閉じ込めて、おばあさんは時折小さく笑いながら、自分の周囲を飛ぶ光を右手で捕まえては、また袋の中に入れていました。非常口の誘導灯に照らされて、緑色の光のなかでぼんやりと浮かんだその光景が、本当に不気味で今でもハッキリと記憶しています。 私は怖くなって、飲み物のことなんてどうでもよくなりました。 早くここから逃げなければいけない。 緊張と焦りとで震えながらも、なんとか足を動かしたときに、なんと財布から百円玉が落ちてしまったのです。 それが床に落ちる音で、おばあさんの動きはピタリと止みました。 そこからの私の判断は早かったです。 スリッパも落とした硬貨もそのままに、その場からダッシュで逃げ去り、部屋に戻ると布団を被って息を殺しました。 それからどれだけ時間が経ったのか分かりません。 私が布団の中で小さく丸まっていると、部屋の襖が開く音がしました。 入ってきてしまった!と思いました。 私は焦るあまり部屋の鍵を閉めていたのかどうかも思い出せません。必死で寝ているふりを続け、呼吸することにすら緊張していました。 「足が冷たい奴がそうだ」 おじいさんのようなしゃがれた声が聞こえました。そして、布団をめくるような音と、肌と肌が触れるような音が聞こえました。全神経が耳に集中しているかのようでした。 そうだ、寝ていると足が温かくなる。つまり、さっきまで起きていた私は足が冷たい。 バレるのは時間の問題だと気付き、ここから逃げ出そうか、いや寝ているふりを続けるべきかと不安でいっぱいでした。 突然、足が空気に触れたかと思うと、水分を失ったかさかさの手が自分の足首を掴むのが分かりました。 悲鳴を上げなかったのは、本当に自分でもよく堪えたと思います。 「こいつも温いぞ…」 「じゃあ違う部屋の奴だ」 足音は一人分のものなのに、声はおじいさんとおばあさん、二人分の話し声でした。そうやってぶつぶつと言いながら、襖が閉まる音が聞こえました。 そこからの記憶は曖昧です。 気付いたら朝になっていたので、安心して気が緩んで眠ってしまったのかもしれません。 でも、私があの場から逃げ去って、そんなに時間は経っていないはずなのに、私の足はどうして温かかったのでしょうね。 ● もしかしたら、君は夢を見ていたのかもしれない。 いやいや、夢とはそういうことじゃないよ。悪夢とか、怖い夢とか、そういう意味じゃない。 君が見たものは、紛れもなく「事実」であったけれど「現実」――「現世の事じゃなかった」というのが、僕の見解だ。 夢というのはね、実に不思議なものなんだよ。 それは、人が最も容易にこちら…いや、「異なる世界」を覗くことができる通路なんだ。異界を覗くのは、肉体の目を通すのではなく、魂が体から離れることで可能となる。だから、そのときの君は、夢を通して怪異側の世界を見ていたのだろう。体は布団のなかで眠っていた。だから、君の足は温かかった。 はは、納得できない顔をしているね。 じゃあ、廊下に残したままの硬貨は?スリッパは?翌日、取りに戻ったかい?朝起きたときに、スリッパが一足分、足りなくなっていたかな? そうか…。取りに行った記憶はないけれど、スリッパの数は揃っていたか。 それではやはり、君が夜中に起きたと思ったところからそれは現実の事ではなかったし、君が歩いた旅館の廊下も、その階段も、現世にあるものではなかったということだね。 どうやら…そういうことは、よくあるみたいだね。治すも治さないもない。それは君が持って生まれた性質だろう。 でも、異なる世界でも法則を理解することができれば、そう怯えることもない。突然言葉も文化も分からない外国に一人置き去りにされたって、どうすれば良いのか分かっていれば幾分か落ち着いて動けるだろう。 これは、僕からの提案だ。 僕は惣台村で調べたいことがある。かつての古い友人が困っているようでね。だから、僕があそこに存在する理由が欲しい。簡単に言うなら、そうだな「足枷」かな。君が僕の「足枷」になる。そうして、僕は君に「夢の歩き方」を教える。どうかな。 んん?まるでプロポーズのようだって。 これは驚いたな。 うん、そういう意図はなかったのだけれど、これも契約の一つだから、あながち間違ってはいないのかもしれない。 では、夏井千冬さん、もうそろそろ戻ったほうが良い。ここは、長居するには相応しくない場所だ。 ああ、ちなみに。君は今、夢路にいるから、目覚めたらもうこの姿の僕と出会うことはない。「奥田悟」という名前の青年と出逢ったら、どうかよろしくしてやってほしい。 <episode 5に続く>