土佐国、檮原という村で怪奇に遭った人の話が残っている。 秋祭りの夜、帰路についていた者が川向から三味線の音を聞いた。暗がりの中でよく目を凝らしてみると、どうにも料理屋があるらしい。あんなところに料理屋があったのかと、のぞいてみることにした。だが、人家の近くに行ったところで先程まで見えていた料理屋の明かりはふっと消えてしまった。 「消えた料理屋」としてこの地に伝わる怪奇談である。 山高い地にある檮原では、山の神である大山祇命――三嶋大明神を古くから信仰してきた。五穀豊穣に感謝する神祭は秋の重要な行事で、祭りの日は大人も子供もみな社へ詣でに参る。 お栄はこの日、幼友達の千代とともに祭りに来ていた。祭りでは約四刻もの時間をかけて神楽が奉納されるので、帰る頃には日もすっかり暮れてしまう。若い娘だけで夜道を歩くのは危ないため、参道入り口の鳥居前で親と待ち合わせて帰ることにしていた。 肌をひんやりとした夜風が撫でていく。祭りの屋台で買った風車が、帯の背からカラカラと音を鳴らすのが聞こえた。 平地よりも幾分早くに冬が訪れるこの村は、これから冬の備えをしなくてはいけない。冬が終わり春が来れば、千代は隣村の乾物屋の息子に嫁入りすることが決まっている。こうして二人で祭りに行くのも今日が最後だと思うと、お栄は寂しさが増していくのを感じた。 口数の減ったお栄の気持ちを察したのか、千代は少し遠回りをして参道に出ないかと提案する。少しでも長く一緒に居たいお栄は、その言葉に頷いた。 神社の氏子が使っている裏道を抜けると、参道の入り口に戻ることができる。裏道とはいえ辺りには氏子の家々があるため、夜道でも明かりが足元を照らしてくれている。 虫の鳴き声に混じって、三味線の凛とした音がお栄の耳に届いた。辺りを見渡すと、千代も不思議そうに「どこから聞こえるんだろう」と視線を遠くに向けていた。 裏道から外れないように、音がするほうへと進んでいくとなにやら美味しそうな匂いまでするようになった。 「あれ」 千代が指さすほうへ目を向けると、川の向こうにぽつんと明かりが灯っている。人家から少し外れたその場所から、美しい三味線の音と鼻奥をくすぐる香ばしい食べ物の匂いが漂っているようだった。 料理屋だろうか、とお栄は考えた。 川向にあるので、裏道からそれてしまうことになる。だが、近くに人家の明かりがあるので迷うことはなさそうだ。少し行ってどんな店か見てみるだけなら……そう思って千代に声を掛けると、彼女も興味を引かれていたようで、行こうとお栄の手を繋いだ。 裏道を外れて畦道を通り、人家の前を通っていく。 三軒の家の前を過ぎたところで、ふと三味線の音が止んだ。曲の終わりという感じはなく、突然ぷつりと調べが中断されたといった途切れ方だった。 お栄と千代は顔を見合わせ、川向うに目を遣ると、道を逸れるまで見えていた明かりはなく、真っ暗な闇が広がっているだけだった。 「おーい、娘っこだけでなにしてる」 突如後ろから声を掛けられ、小さく悲鳴を上げて振り返ると白い装束を来た初老の男が立っていた。手に神楽の道具を持っており、氏子だろうとお栄は思った。 夜道で見知らぬ男に声を掛けられて驚いたが、神社の関係者であるなら安心だ。 「そっちに道はねえぞ」 男は、こっちこっちと裏道のほうへ手招きする。 大人に見つかってしまったことと、目当ての店が見えなくなったことでお栄も千代もすっかり熱が冷め、大人しく男について行くことにした。 男は随分と心配性なようで、参道に戻るまで共に歩いてくれた。道中で、お栄たちは先程川向で見た料理屋らしきもののことを話す。 「あの辺に料理屋はねえぞ。奥に森があるだけだ」 では、あの三味線の音や食べ物の匂いはなんだったのだろう。お栄が答えの出ないことを考えていると、千代が「ひょっとして、狸に化かされたのかねえ」と唸った。 千代の答えに、男はわははと腹から可笑しそうな笑い声をあげた。 「この辺は三嶋大明神のお膝元だぞ。人に悪さするような妖怪が出るもんかい」 男はひとしきり笑って息を整えると、「そうだなあ、もしかすると」と考えるように言った。 神様のための料理屋だったのかもな。 土佐の国の奇譚、消えた料理屋