「…………おい、……おい! おねえちゃん、大丈夫か?」 耳に届く声が次第に大きくなり、緩やかに浮上していた昴の意識は完全に覚醒した。 「! ……ここは……?」 上体を起こすと、自分を覗き込むようにしゃがんでいた中年の男がゆっくりと距離を取って立ち上がるのを視界の端に捉えた。 「いやぁ、たまげた。おねえちゃん悪運が強ぇなあ。あんなトコから落ちてなんともないとは」 「あはは……それほどでも」 昴は笑って誤魔化すと、立ち上がって服に付いた枯葉や細い木の枝を手で払い落す。 ――ここは、どこかしら。足を滑らせて、山坂を転がっていったところまでは覚えているけれど……。それに、このおじさん。 このカーキ色のジャンパーには見覚えがあった。少し前に、林の奥で見かけた男が着ていたものに似ている。 考えながら、落ちる直前の記憶を辿る。 ――でも、あのとき私に答えた男の声とはまた違う。あれはおそらく怪異の声だ。でも、このおじさんは、一体なにかしらね……。善意も悪意も全く感じない、怪異とも人間とも分からない。そう、例えるなら……。 ――ドン、ドン、ドン、ドン―― 昴の思考は、突然響き始めた太鼓の音によって強制的に中断される。 「あー、始まったなぁ……」 男は間延びした声を出し、音のするほうへと歩き始めた。昴も無意識的に続く形で足を動かす。 「始まったって、なにがですか?」 「例祭だよ。毎月8日は、屋敷まわり様に酒をお供えする日なんだ」と答えて、手提げの袋から一升瓶を覗かせる。 「8日……?」と、昴が小さく呟いた声は男には届いていないようだ。 “屋敷まわり様”というのは、日本では無毒な蛇――特に青大将のことを指す。人家周辺に棲み、農作物を荒らすネズミを捕食するため、農家では有難がって“屋敷まわり様”または“先祖さま”などと呼んでいた。転じて、農耕神として信仰される蛇神をそう呼ぶ地方もある。 ここの蛇神は、地元の人間には屋敷まわり様と呼ばれているのか。 そこまで考え、昴は己が見落としていたことに思い当たった。 「あの、……おじさんはこの村の人?」 そう。この村は、とっくに人の住む土地ではなくなっている。だというのに、この男の存在はあまりにもこの地に馴染み過ぎていた。 昴の問いに、先を歩いていた男が振り返る。その顔があまりにも無表情で、ドキリと嫌な鼓動を感じた。 ―ドン、ドン、ドン、ドン― 太鼓の音は止むことなく、等間隔で叩かれている。 数拍の間の後、男はへらりと緩く笑うと「当たり前だろぉ」と答えた。その言葉に、昴は確信する。 ――ここは、現世じゃない。怪異の領域に足を踏み入れてしまったの? いつから? 長官とはぐれたとき? それとも、落ちたとき? 救出されたあの子たちも、突然姿を消したように同行者とはぐれたと言ってたわね。まさか、今の私も同じ状況なの? でも……ここは、長官が言っていた夢の景色とも違う気がする……。 大きくなる太鼓の音が身体を震わせる。 男が「ここだよ」と足を止めた先は、鳥居も注連縄も社もない、開けた空間に石像だけが置かれていた。巨大な石を削り出して造ったような、研磨の入っていないごつごつとした石像は、とぐろを巻いた蛇が象られ、苔むした様相から年代物を感じさせる。 石像の奥に、大きな和太鼓が置かれていたが――太鼓を叩く人間は、見当たらない。この広場には、目の前の男と、自分しかいない。 誰も打っていない太鼓が、等間隔に音を出している。 異様な光景を目の当たりにして、昴は震える指先を握り込んだ。 ――落ち着け、落ち着くのよ。ここは怪異側の領域。多少、変なことは起こるって。大丈夫。少なくとも、私は“ここでは死なない”。 俯いて息を吐き出し、顔を上げた昴の目の前には、石像を取り囲むように酒盛りをする男たちがいた。 「は……?」と、思わず声が漏れる。 下を向いていたのはほんの一瞬だった。その間に、目の間に立っていたはずの男は石像の前に胡坐をかいて座り込み、さっきまでいなかった数名の男たちと酒瓶を開けて騒いでいる。 昴がその光景を目にした途端、消音だったテレビの音を元に戻したように、周囲が宴会のようなざわめきに包まれ、先程までの静寂を塗りつぶした。 太鼓の音は、いつの間にか止んでいる。 男たちは、まるで昴がここに居ないかのように、彼の存在など眼中になく酒盛りに興じている。盛り上がる男たちを眺めながら、昴はどう動くべきかを考えていた。 彼らの様子からは、自分が全く認知されていないことが察せられる。 ――彼らが“ここ”に居ないのか、それとも私が“ここ”に居ないのか……。 ここに来る前に、「毎月8日に例祭がある」と男が言っていた。だが、今日は8日ではない。これを聞いたときから、今いる空間に違和感を覚えてはいたのだ。 この空間に穢れは感じない。浄化の儀式をしても、効果はなさそうに思える。 ――私があの場に割って入ったら、彼らは反応するかしら。 この場に刺激を起こしてみようと、昴は「おじさん!」と声を大きくして呼び掛けたが、声など耳に入っていないように誰も反応を示さない。 だが、ここまでは予想の範疇だった。 次に昴は足を前に出し、宴会の輪に近付く。その内の一人、先程まで会話をしていたカーキ色のジャンパーを着た男の肩に触れようとしたが、肩に触れたと思った手はそのまま男の身体を通り抜けるようにして空を切った。手が触れた場所は、一瞬煙のように揺らいだが、すぐに元の形を復元する。 ――ここに居ないのは、この人たちのほうだったんだ。 男と会話した後で抱いた違和感。それは、男から感じる気配が空気のようだったのだ。生き物の意志を感じない、気配の有無が掴めない――例えるなら、色の付いた空気のようだと思ったのだ。 ――宴会……いや、石像を囲んで酒盛りをするのが彼ら流の「例祭」なら、この光景が今目の前で起こっているのはどうしてなの。例祭をしている最中に、謎の失踪事件が起こったとして、過去の惨劇が念として空間や土地に残ったとか? 違う、ここは明るい。例の事件は、確か夜中に起こっている。これが事件当日の光景なら、この空間は夜であるはずよ。 触れると揺らめく人間たちの輪の中では、到底思考がまとまりそうにない。そう考えた昴は、彼らに背を向けて少し距離を取ろうと離れた。 そのとき、再び、辺りに静寂が戻る。 音が消えたと同時に弾かれたように背後を振り返った昴の目の前には、石像と太鼓しか無かった。先程まで宴をしていた男たちは皆、姿を消していた。 暫く、人の消えた空間を見つめていると、再び太鼓の音が空気を振動させる。 ――ドン、ドン、ドン、ドン―― その音に引き寄せられるように、先程の男たちがめいめい手に酒瓶を持ち、石像の前に集まって座り込む。 そうして、また、酒盛りを始めた。 ループしている。 そう、昴は直感した。 『わかったぁ?』 昴の意識を読み取ったように、頭上で若い女の声が聞こえた。 「だれ!?」 昴が目を開けると、視界いっぱいに黒が映った。 意識を取り戻したことで、先程の光景は夢だったのかという感想と、目の前の「黒」はなんだという疑問が同時に浮かぶ。 そうして、黒いものが人の顔であると気付くのに、大した時間はかからなかった。 顔の横から垂れるボサボサの黒髪が、自分の顔に当たってチクチクと肌を刺激する。顔が黒い。影になっているのか、顔貌、表情が全く判別できない。いや、影のせいではない。それだけで目鼻立ちが全く分からないなんてことは、有り得ない。この女には、顔がないのだ。 見えない口が、何かをブツブツと喋っている。 自分が、顔の見えない女に覗き込まれるようにして膝枕をされている状況に、昴は咄嗟に声を上げた。だが、肺から上がった空気は喉で止まって口から出てこない。 身体が金縛りにあったように動かず、声も出せないのだ。 試しに心の中で、金縛り解呪の祝詞を上げてみたが、全く効く気配はなかった。 ――私、坂から落ちてずっとこの状態だったわけ? じゃあ、さっきのは全部夢? それに、こいつ……全身から禍々しい気配が出ている。怪異かどうかよりも、確実に良くないものだわ。 目の位置も分からないが、黒い顔が自分を見下ろしているのが分かる。だが身体が動かないので、自分を覗き込む女の頭と、その奥に森が広がっていることしか分からない。 「ふしんじんものへばつを、ふしんじんものへ罰を、ふしんじん者へ罰を、ふ信心者へ罰を、不信心者へ罰を」 見上げるしかない女の顔――どこにあるのかも分からない口から漏れる呪詛のような言葉が、何を言っているのか、段々と理解できるようになった。声が鮮明に聞こえるにつれ、女の発する声が、先程の光景が終わる直前に聞いたものと同じ響きだと気付く。 『不信心者へ罰を』 そう言っている。 信心を怠った者――不信心者とは、誰のことか。 「さかいごしのはらえど、しね。さかいごしのはらえど、しね」 女が次に繰り返し始めた言葉に、昴は心臓が鷲掴みにされたような驚きを得た。今までは、ここで起こる事象をどこか他人事として観察していたが、ここにきて急に当事者として引っ張り出されたかのように感じたのだ。 この女は、境越祓所に敵意を持っている。では、不信心者とは、境越の人間のことだろうか。誰か特定されているのか、それとも組織として憎んでいるのか。 正直、怪異狩りを生業としている以上、人間、怪異関係なく多かれ少なかれ恨みは買う。だが、こと怪異がこちらをしっかりと名指しで認識しているのならば、その怪異は知能を有しているため一段と厄介だ。 昴は、女が境越祓所に対する敵意を口にした瞬間から、この怪異は明確な敵だと認識した。それと同時に、僅かに感じていた恐怖は消え去り、目の前の敵をどう消すかという方向に意識を研ぎ澄ませる。 ――この女は、一体なにかしら。これが、長官が夢で見たっていう女の怪異なら、夢異界と現世を行き来できるってこと? いや、これもまだ夢の中なのかもしれないわね。長官がいれば、心強いのだけど……。 昴が思いを巡らせている間にも、呪いを吐く女の声は止まない。 ベチャ、と水気を含んだ嫌な音と共に、蠢く気持ち悪いなにかが肌に触れるのを感じた。黒い女の顔から、何年も櫛を通していないようなボサボサの黒髪から、白いものがボトボトと落ちてくる。 「ぎゃああああああああああああ!!」と、濁った声が空気を裂いた。 その悲鳴は、昴のものではない。昴の頭を膝に乗せていた女は、弾かれたように立ち上がると頭を掻きむしり始めた。落ち葉の積もった地面に叩き落されるようにして頭をついた瞬間、昴の金縛りが解ける。 起き上がった昴は、頬についた白いものを「気持ち悪い」と言いながら指で払い飛ばす。声も出せるようになっていた。地面に落ちたそれは、蛆のように蠢いた後に消えた。 「いやだ、いやだ! まだ終わってないのに! まだ殺してないのに!!」 視線を向けると、女は駄々をこねる子供のように泣き叫び、地面に倒れ込むと、身体を搔きむしりながら暴れている。今付いたものではなさそうな乾いた土汚れが、女の着ている黒いワンピースを斑模様に見せていた。白く、小さな蠢くものは、うねるように女の全身から這い出し続けている。 蛆のように小さなそれは、蛇の姿をしていた。 女もそれに気付いたのだろう。 「どうしてですか、屋敷まわり様! 蛇神様! 助けてください! 許してください!」 「――プッ……あははははは!」 女の泣き叫ぶ声を聞いた昴は、心底おかしそうに笑い出す。その声に反応し、女は地面にこすりつけていた顔を昴へと向けた。顔は、やはり塗りつぶされたように黒く、どういう表情をしているのか判別がつかない。 だが、昴には女がどんな顔をしていようが、もうどうでも良かった。目の前の存在について、理解しようとする感情が微塵も湧かない。 「馬鹿ね。それは、あんたが信仰している蛇神じゃないわ」 告げながら、昴は地面に倒れ伏す女にゆっくりと歩み寄った。 「あんた、さっき私を呪ったでしょう。私に巣食ってるヤツはね、どうも独占欲が異常に強いみたいで……私がそいつの呪い以外で死ぬことを許さないのよ」 昴の表情は、心底楽しそうに口端を上げて微笑んでいたが、その瞳は全く笑っていなかった。 「先約の自分を差し置いて呪おうとしたものだから、呪詛返しを受けたのね……あんたが思ったより低能で助かったわ」 女がどんな顔で昴を見上げているのか、――たとえ彼女の顔が黒く塗りつぶされていなくても、もう判別は不可能だった。蛇が湧き出た肌は、酸を浴びたように溶け出し、黄ばんだ骨が露になっていた。 やがて完全に物言わぬ白骨と成ったそれを、昴は無感情に見下ろす。 「本当に……お前らみたいな害悪は、みんな消えてしまえばいいのに」 昴がコートのポケットから取り出した朱色の護符を取り出して骨の上に置くと、護符は橙色の炎へと変わり、落ち葉へと移ることなく骨だけを燃やしていく。 炎を見つめながら、昴はここに来たときに千歳と話したことを思い出す。 「『お互い、ちょっと特殊な体質の普通の人間』か……」 そう思っていることに、嘘はない。だが、今の自分は、己が思う人間とはかけ離れているように思った。 そう時を置かずして、炎は完全に骨を呑み込み、消えていった。 ――私のような凡人が、どうしてこんな仕事を長くやって、毎回無事に帰ってこられているのか。 これが、その理由。 自分を呪う蛇を憎みながら、蛇の呪いによって生かされている。 ――これでも、人間だと言ってもいいのかしらね。 は、と笑いともつかない乾いた息を吐き出し、昴は炎が消えた場所に地面を蹴って落ち葉を被せる。炎は怪異のみを燃やすため、そこには燃え跡すら残っていない。だから、昴の行為に大した意味はなかった。 それでも彼は、そこにあったものを、なかったようにしたかった。 「さて、と……」 先程とは打って変わって明るい声を出すと、昴は切り替えるように己の両頬を掌で叩いた。 ――長官を探しに行かなくちゃ。 <episode 4に続く>